山村暮鳥

2006年2月1日
今日は詩人、山村暮鳥について書き綴ろうと思う。

俺は叙情詩人が好きだ。
叙情とは自分の感情を表すことで、つまり感情についての詩を書く詩人。
心の闇であったり、やりきれない感情であったり、様々だが。

だが、この山村暮鳥という詩人は叙情詩人ではない、と思う。
(あるいは巧妙な叙情詩人であると思う。)

風景だ。この人の詩から浮かび上がるものは。
画家にも様々なタイプのヤツがいるが、こいつが画家ならただ風景を描く人。
何かを言いたいんじゃない、風景を描きたいだけ。ただそこに広がる風景を。

山村暮鳥は、ただ、綺麗なものをそのまま詩にしたいだけ。
詩を書きたいだけ。飾りつけも、余計な詮索も必要ない。ただの詩。
太陽は綺麗だなぁ、とか、風が温かいなぁ、とかそれだけ。そういうレベル。
でも、そういう風な詩に魂が宿っているというか、
宮沢賢治に少し似たところがあるんだけど、また違う、この人のはこの人の。
(という俺の勝手な解釈)

ほんわかしてる。
だから、叙情じゃなくても、俺はこの人の詩が好き。

「雲」という詩集の序章の一節。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 〜中略〜

 かうしてそれを喰べるにあたつて、
 大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌礼拝するだけの自分である。
 
 詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。
 
 だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。
 
 詩をつくるよりは田を作れといふ。よい箴言である。
 けれど、それだけのことである。
 
 善い詩人は詩をかざらず。
 まことの農夫は田に溺れず。
 
 これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。
 詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。
 
 なんといはう。実に、田の田である。詩の詩である。

 〜中略〜
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コレは詩ではないが、もう感じるものがある。
たぶん、この言葉には作者の嘘は無い。100%の真実だと思う。
この作者からは嘘臭さや、虚勢や誇張を感じないのである。

以前、この日記で書いたことあるかもしれないけど(いや、分かんないけど)
書いたことがあったとしても、もう一度、書かせてもらう。
まず、少し叙情の入った感じのヤツ。結構お気に入り。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

『手』

しつかりと
にぎつてゐた手を
ひらいてみた
ひらいてみたが
なんにも
なかつた

しつかりと
にぎらせたのも
さびしさである

それをまた
ひらかせたのも
さびしさである

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

きゅんっ!でしょ?w
この心臓をえぐられるようなトキメキは一体なんなんだ!!?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『おなじく』

ああ、もつたいなし
もつたいなし
蟋蟀(きりぎりす)よ
おまへまで
ねむらないで
この夜ふけを
  わたしのために啼いてゐてくれるのか

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

題名は『病牀の詩』というヤツの続きみたいな感じで『おなじく』になっています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『おなじく』

林檎はどこにおかれても
うれしさうにまつ赤で
ころころと
ころがされても
怒りもせず
うれしさに
いよいよ
まつ赤に光りだす
それがさびしい

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

題名は『赤い林檎』というヤツの・・・以下略。
というふうなワケですよ。

知らないけど山村暮鳥はたぶん農家出身だな。そんな感じがする。
あとで調べてみよう。

じゃ。

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