うんこのどこがちっぽけじゃい!
2006年2月15日メイド喫茶が流行してるということで、俺は友人に提案した。
「メイド相撲」
友「なんだそれは?メイド達が相撲を取るのか?」
俺「いや相撲取りがメイドの格好して対戦する。」
友「そっちか!笑」
ネコ耳海vs琴ゴスロリ
う〜ん。ネコ耳は別にメイドに関係ねぇなぁ。
やばい、腹痛だ!便意だ!だが、我慢我慢。
宇宙のことを考えると、我々はちっぽけな存在だと感じます。
ちっぽけな存在が、ちっぽけな事象に悩み、苦しみ、そして狂喜乱舞する。
一体、我々はどうして存在しているんだろう?どうして生まれきたんだろう?
しかし、それもまたちっぽけなことでしかない。
そして個人としての俺もまたちっぽけだ。ちっぽけなんだ。
何もかもちっぽけだ。
ただ今腹が減っているということを除いては!
それと同時に猛烈な便意が俺を襲っていることを除いてはっ!
腹は減っているがうんこはしたい。
うんこはしたいが腹は減っている。
飯を食いたいがうんこは出したい。
うんこは出したいが飯は食いたい。
そうか・・・。つまりこういうことか。
うんこを食いたい。
そしてまた、これもちっぽけなことだ。
宇宙の片隅で男が一人うんこを食ったとて・・。
さて、超宇宙銀河級(スーパー・コスモ・クラス)のU・N・K・Oでもしてきますか。
こうして俺は脱糞ところにより放屁をしてきたわけなのだが、
「我らはちっぽけ」という、先程たらたらと述べた議論について開眼した。
脱糞ところにより放屁のおかげで。
うんこを見ろ!真っ直ぐ見ろ!
我らが生産した、その物体は、色、香り、形状ともにちっぽけではない。
実に現実的であり、生産的であり、ところによりダダイズムといった感じで、
それはもはや、我々の生きている意味、目的なのではなかろうか?!
この我々が生産した物体はちっぽけの枠を大幅にはみ出し(ついでに便器からも大幅にはみ出し)
もはや宇宙の真理、本質、真意ところにより全てなのではなかろうか?
うんこを生産するために我々は生きている、もとい我々は生きているからこそうんこを生産している。
まあどっちでもいいか。
法皇、天皇、大統領、総理大臣、将軍、軍曹、中将、会長、社長、支部長、係長、委員長、班長
自分より偉い立場の奴だって、このうんこを生産するのだ。
同じ立場の生産者の一人であるのだ。うんこは誰にだって平等なのだ。
うんこによって人類、鳥類、獣類、魚類ところにより宇宙人と全て繋がっているのだ。
星だって、宇宙のカスとガスで出来ているのだから、コレはもはや、まごうこと無き宇宙のうんこである。
カス&ガスと言えば、もはや脱糞行為のことを指し示しているほか私は思いつかない。
違うと言うのなら私は入水、睡眠薬、首吊り、ところにより断尿自殺をするしか思いつかない。
我々はもはや一人ぼっちではない。脱糞行為を施した後、大便器を覗いてみると実感できる。
「僕らは一人ぼっちじゃないんだ!」
そうして、同時にこう思い、考え、ところにより感慨深い感情に襲われるだろう。
「僕はちっぽけな存在なんかじゃないんだ!」
寿司、焼肉、ハンバーグ、ところによりカレーライスは全て良質のうんこを生産するために
摂取するのである。例を挙げれば枚挙にいとまが無いが、実にいなせで粋な話である。
我々は食べる。生きるために食べるのである。そして食べる=うんこを生産する。なのである。
つまり、この理論を得意の三段論法で「よもさん、せっぱ」すると、
生きるということはうんこを生産すること。なのである。
そして、おお、そうか、なるほど、生きることはうんこをすることなのか、と自分で納得した。
それと同時に「俺はでかい男になりたい。」と思い、それはつまりこういうことである。
「俺はでかいうんこをする男になりたい。」そうなのである。
人間の器のでかさはうんこのでかさに比例すると言うこれまた突飛な結論にたどり着いたのである。
コレは古来より言い伝えられる「ケツの穴のちいせぇやつだ、てやんでぇ」という
あの諺から導かれた、由緒ある方程式であり、器のちいせぇ、つまりはケツの穴のちいせぇと
そういう風に例えられているので、故人の言うことにやはり間違いは無いのではないか?と
勝手に思い、そしてこの諺を勝手に改ざん、それと今流行の風説の流布じゃなくてなんだっけ?
まぁいいや、そんな感じで「ケツの穴のでかさ=うんこのでかさ=器のでかさ」と
これまた得意の三段論法で、あい繋がったわけでありまして、そうなのです、ご了承ください。
おっと、また悪ノリになっちまったぜ。あぶねぇあぶねぇ。
つまりこういうことだ。
うんこを呪わば(ケツの)穴3つ
・・・。
豚に蹴られて飛んじゃいな♪
中村屋!中村屋!中村屋!中村屋! 中・中村屋。
「メイド相撲」
友「なんだそれは?メイド達が相撲を取るのか?」
俺「いや相撲取りがメイドの格好して対戦する。」
友「そっちか!笑」
ネコ耳海vs琴ゴスロリ
う〜ん。ネコ耳は別にメイドに関係ねぇなぁ。
やばい、腹痛だ!便意だ!だが、我慢我慢。
宇宙のことを考えると、我々はちっぽけな存在だと感じます。
ちっぽけな存在が、ちっぽけな事象に悩み、苦しみ、そして狂喜乱舞する。
一体、我々はどうして存在しているんだろう?どうして生まれきたんだろう?
しかし、それもまたちっぽけなことでしかない。
そして個人としての俺もまたちっぽけだ。ちっぽけなんだ。
何もかもちっぽけだ。
ただ今腹が減っているということを除いては!
それと同時に猛烈な便意が俺を襲っていることを除いてはっ!
腹は減っているがうんこはしたい。
うんこはしたいが腹は減っている。
飯を食いたいがうんこは出したい。
うんこは出したいが飯は食いたい。
そうか・・・。つまりこういうことか。
うんこを食いたい。
そしてまた、これもちっぽけなことだ。
宇宙の片隅で男が一人うんこを食ったとて・・。
さて、超宇宙銀河級(スーパー・コスモ・クラス)のU・N・K・Oでもしてきますか。
こうして俺は脱糞ところにより放屁をしてきたわけなのだが、
「我らはちっぽけ」という、先程たらたらと述べた議論について開眼した。
脱糞ところにより放屁のおかげで。
うんこを見ろ!真っ直ぐ見ろ!
我らが生産した、その物体は、色、香り、形状ともにちっぽけではない。
実に現実的であり、生産的であり、ところによりダダイズムといった感じで、
それはもはや、我々の生きている意味、目的なのではなかろうか?!
この我々が生産した物体はちっぽけの枠を大幅にはみ出し(ついでに便器からも大幅にはみ出し)
もはや宇宙の真理、本質、真意ところにより全てなのではなかろうか?
うんこを生産するために我々は生きている、もとい我々は生きているからこそうんこを生産している。
まあどっちでもいいか。
法皇、天皇、大統領、総理大臣、将軍、軍曹、中将、会長、社長、支部長、係長、委員長、班長
自分より偉い立場の奴だって、このうんこを生産するのだ。
同じ立場の生産者の一人であるのだ。うんこは誰にだって平等なのだ。
うんこによって人類、鳥類、獣類、魚類ところにより宇宙人と全て繋がっているのだ。
星だって、宇宙のカスとガスで出来ているのだから、コレはもはや、まごうこと無き宇宙のうんこである。
カス&ガスと言えば、もはや脱糞行為のことを指し示しているほか私は思いつかない。
違うと言うのなら私は入水、睡眠薬、首吊り、ところにより断尿自殺をするしか思いつかない。
我々はもはや一人ぼっちではない。脱糞行為を施した後、大便器を覗いてみると実感できる。
「僕らは一人ぼっちじゃないんだ!」
そうして、同時にこう思い、考え、ところにより感慨深い感情に襲われるだろう。
「僕はちっぽけな存在なんかじゃないんだ!」
寿司、焼肉、ハンバーグ、ところによりカレーライスは全て良質のうんこを生産するために
摂取するのである。例を挙げれば枚挙にいとまが無いが、実にいなせで粋な話である。
我々は食べる。生きるために食べるのである。そして食べる=うんこを生産する。なのである。
つまり、この理論を得意の三段論法で「よもさん、せっぱ」すると、
生きるということはうんこを生産すること。なのである。
そして、おお、そうか、なるほど、生きることはうんこをすることなのか、と自分で納得した。
それと同時に「俺はでかい男になりたい。」と思い、それはつまりこういうことである。
「俺はでかいうんこをする男になりたい。」そうなのである。
人間の器のでかさはうんこのでかさに比例すると言うこれまた突飛な結論にたどり着いたのである。
コレは古来より言い伝えられる「ケツの穴のちいせぇやつだ、てやんでぇ」という
あの諺から導かれた、由緒ある方程式であり、器のちいせぇ、つまりはケツの穴のちいせぇと
そういう風に例えられているので、故人の言うことにやはり間違いは無いのではないか?と
勝手に思い、そしてこの諺を勝手に改ざん、それと今流行の風説の流布じゃなくてなんだっけ?
まぁいいや、そんな感じで「ケツの穴のでかさ=うんこのでかさ=器のでかさ」と
これまた得意の三段論法で、あい繋がったわけでありまして、そうなのです、ご了承ください。
おっと、また悪ノリになっちまったぜ。あぶねぇあぶねぇ。
つまりこういうことだ。
うんこを呪わば(ケツの)穴3つ
・・・。
豚に蹴られて飛んじゃいな♪
中村屋!中村屋!中村屋!中村屋! 中・中村屋。
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